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親ごころ

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一条の街道がこれから村へかかろうとするあたりに、這い込むような小さな家が一軒、道のほとりにたっていた。彼はむかしその家に住んでいた。土地の百姓のむすめを妻に迎えると、この男は車大工を稼業にして暮しをたてていた。夫婦そろってなかなかの稼ぎ屋だったので、世帯をもってしばらくたった頃には、どうやら小金こがねもできた。ただ、夫婦のなかには、どうしたことか、子宝がなかった。二人にとっては、それが深いなげきの種だった。ところが、その子宝もようやく授かった。男の子だったので、ジャンという名をつけた。眼のなかへ入れても痛くない、子供の顔を見ないでは夜も日も明けないと云う可愛がり方。そして、車大工とその女房は、交わるがわるその一粒種を手にとって、撫でたりさすったりしていた。
その子供が五つになった時のことである。旅まわりの軽業師の一座がこの村へ流れて来て、役場のまえの空地あきちに小屋をかけた。
軽業師の一行をみたジャンは、こっそり家を脱けだした。父親は足を棒のようにして息子の行方をさんざ探ねて廻った※句あげく[#「てへん+易」、U+63A6、120-12]、ようやく探し当てることが出来たのであるが、ジャンは、芸を仕込まれた牝山羊や軽業をする犬にとり囲まれて、年老った道化師の膝にのって、声をたててキヤッキヤッ笑っていた。
それから三日たって、夕餉ゆうげの時刻に、車大工とその女房が膳につこうとすると、子供がいつの間にか家にいなくなっていることに気がついた。庭のなかを探してみたが、やッぱりいない。そこで父親は道ばたに出て、声を限りに呼んだ。
「ジャン! ジャーン!」
もう暮色が蒼然とあたりに迫っていた。夕靄がけぶるように野末にたちめ、ものの輪廓が、ほの暗い、はるか遠方おちかたにあるように見えた。道ばたに三本立っている見あげるようなもみの木までが、まるで泣いてでもいるようにうるんで見えた。が、呼べど呼べど、応える声はなかった。けれども車大工には気のせいか、その辺の闇のなかで呻くような声がかすかに聞えるようだった。彼はながい間じッと耳を澄して聞いていた。ある時は右の方に、またある時は左の方に、絶えず何かしら聞えるような気がした。今はもう気も顛倒してしまった彼は、我が子の名を呼びつづけながら、闇の中をかき分けるようにしてけて行った。
「ジャン! ジャーン!」
こうして彼は、烈しい悲しみに打ちひしがれ、時には気が狂ってしまったのではあるまいかと思いながら、闇のなかに絶えず我が子の名を呼びつづけ、夜あるきをするけだものを怯えさせながら夜が明けるまで馳け※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)った。――女房はまた女房で、戸口の石のうえにべッたり腰をついたまま、朝になるまで、おいおい泣いていた。
子供はとうとう見つからなかった。
そこで車大工とその女房は、忘れようとしても忘れられない、その悲しみのうちにめッきり老けてしまった。
とうとう家もひと手に渡してしまい、夫婦は、自分たちの手で息子の行方を尋ねようとして住みなれた村を後にした。
とある山の中腹に羊飼いの姿を見かけると、二人はその男に訊いてみた。行きずりの旅商人たびあきんどにも尋ねてみた。村に這入れば百姓に、町へ着けば役場へいって訊いてみた。けれども、息子が行きがた知れずになってからもうかなり日数ひかずもたっていることとて、誰ひとりそれを知る者もなかった。当の息子のジャンにしたところが、今ではもう自分の名前も、生れ故郷の村の名も忘れてしまっているに違いない。我が子にめぐり会えるという望みもはや絶え果てて、車大工とその女房はただ泣くばかりだった。
そうこうするうちに、持っていた路銀もつかい果してしまった。そこで夫婦は農家や旅籠屋で日雇取りをして、一番賤しい仕事をあてがわれ、他人ひとの残りものを食べて露命をつなぎ、夜はまた夜で、寒さに悩みながら冷たい板の間で旅寐の夢をむすぶ身となった。こうした苦労がつもり積って、夫婦はめっきり体が弱ってしまった。そうなると、もう誰ひとり雇ってくれる者もなくなった。そこで彼等はやむなく路傍にたたずんで道ゆく人の袖にすがった。旅人の姿をみると、悲しそうな顔をして、情けない声をしぼって哀れを訴えた。また、正午まひるの野良で、一株の木のまわりに集って弁当をつかっている百姓の一団を見かけると、一片ひときれ麪麭パンをねだった。そして二人は、溝のふちにしょんぼり肩を並べて坐って、黙々とそれを食べていた。
夫婦の悲しい身の上ばなしを聞かされた旅籠屋の亭主が、ある日、二人にこんなことを云った。
おらも娘さなくした人を知ってるだがな、その人ァ巴里さ行って、その娘を探しあてただとよ」
そう聞くと、二人はすぐさま巴里を指して歩きだした。
大都会に一歩あしを踏み入れると、彼等はその広いことと、往来ゆききの人の多いことに、しばしは途方に暮れた。
しかし彼等はこういう人たちのなかに探ねる息子のジャンもいるに違いないのだと思った。けれども、一体どうして息子を探せばいいのか、その見当は皆目つかなかった。それに息子に別れてから、もう十五年にもなるのである。よしんば、折よく出会うことが出来たとしても、果して自分の息子だということが分るだろうか。二人はそう思うと心もとない気がした。
広場という広場、往来という往来は、一つ残らず歩いてみた。人だかりのしているところへ来ると、彼等はきまって足をとめた。神のお引合わせということもある。無慈悲な運命にもなみだはあろう。あるとも思われないような万が一の※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)めぐり合わせということも世間にはある。頼むのは、ただそればかりだった。
彼等はよく互にひたと倚りそって、あてもなく、ただ前へ前へと歩いて行った。その容子がいかにも哀れに悲しく見えるので、途ゆく人は、彼等がまだ求めもしないのに、施しをした。
日曜だというと、二人は教会の入口へ行って、終日いちんちそこに佇んでいた。そして、出たり這入ったりする人を眺めては、その数知れぬ顔のうえに、遠い昔のなつかしい面差を探しているのだった。これこそ自分の息子に違いないと思われる顔を見かけたことも幾だびかあるにはあった。が、いつもそれは思い違いだった。
二人がどこの教会よりも一番よけいに出かけて行く教会があった。その教会の入口のところに「浄めのお水」をかける老人がいた。二人はやがてこの老人と顔馴染になってしまった。聞けば、この老人も悲しい悲しい身の上ばなしを持っていた。ああ気の毒なひとだ、と思う気持が、彼等の間にいつしか深い友情を生むようになった。とうとう、彼等はある大きなアパートの、それも屋根裏のむさくるしい部屋で、三人で暮すようになった。その家はもう巴里も場末の、そのまた外れにあって、野ッ原のそばに建っていた。教会からはずいぶん遠く離れていた。そして、車大工はこの老人が体のあんばいでも悪いことがあると、教会へ出かけて行って、新たにできた友達の代りをつとめた。冬が来た。その冬はまた馬鹿に寒気がきびしかった。浄めのお水をかけることを稼業にしている老人は、可哀そうに、死んでしまった。そこで小教区の司祭は、車大工の不幸な身の上を知っていたので、この男をその後釜に据えた。
そこで彼は、朝になると、来る日も来る日も、いままで老人の坐っていた場所にやって来て、同じ椅子に腰をかけ、古い石の柱に倚りかかって絶えず背中でそれをこすっては、柱をすり減らすのだった。そして、教会へ這入って来る人の顔を一つ残らずじいッと視つめていた。彼は、学生が日曜日を待ち佗びるように、日曜が来るのを首をながくして待った。その日は、教会が絶えず人で雑沓するからである。
教会のなかがじめじめしているために、体がいよいよ弱くなって、彼はめッきり年をとった。そして、彼が心ひそかに念じている一縷の望みも日一日と崩れて行くのだった。いまはもう、教会へお勤めに来る人はひとり残らず知っていた。そうした人たちの教会へ来る時刻から十人十色の癖まで、彼はいちいち承知していた。石ただみのうえをこつこつと歩いて来る跫音を聴くだけで、もう誰が来たのか、ちゃんと解るようになってしまった。
見なれない顔が一つでも教会へ来れば、彼にとっては大事件であった。それほど、彼の生活は狭いものになってしまった。ある日、二人連れの女が教会へやって来た。一人は年をとっているが、もう一人のほうは若い。どうやら母娘おやこらしい。その後ろについて、その女の連れらしい一人の男が彼の前を通った。教会から出て来ると、彼はその人たちにお辞儀をした。そして浄めのお水を差しだすと、その男は年をとったほうの婦人の腕を小脇にかかえるようにした。
(この男はあの若い女の許嫁なのだな)
彼はそう思った。
しかし彼には、この男に似た青年にむかしどこかで出会ったことがあるような気がしたので、その日は夕がたまで、自分の記憶を辿り辿り、あれかこれかと探してみた。だが、思いあたる男は、今ではもう老人になっているはずである。自分がその男を識っていたのは、ずッと昔のことで、まだ自分が若かった頃のことだと思われたからである。
その男は、その後も、例の二人の女と一しょに時折り教会へやって来た。おぼろげながら、遠いむかし、どこかで見たことのある、親しい顔であると思われるのだったが、はッきり思い出すことは出来なかった。それがこの聖水おみずかけの老人の心をくるしめだしたので、彼は自分の衰えた記憶を助けてもらうつもりで、女房も自分と一しょに教会へ来させた。
ある日の夕がたのことである。もう日が暮れようとする頃、例の三人連れの男女が這入って来た。自分たちの前を彼等が通りすぎると、亭主はそっとこう云った。
「どうだね、お前にゃ見覚えはねえかい」
女房はそわそわと落ち付かぬ容子をして、亭主と同じようにしきりに思い出そうとしていたが、出し抜けに、囁くような声でこう云った。
「そう、そう――だけど、あのひとのほうが髪の毛が黒いし、背丈せいもたかいし、それに立派な旦那のようななりをしているねえ。だけど、お爺さん、ごらんよ、あの顔はお前さんの若い時分の顔にそッくりだよ」
老人はそう聞くと思わず飛びあがった。
なるほど、女房の云う通りだった。その男は自分に似ていたし、死んだ自分の兄にも似ていた。彼がおぼえている、まだ若かった頃の父親の顔にも似ていた。年老いた夫婦は胸が一ぱいになって、もう口が利けなかった。三人連れの男女が降りて来て、玄関を出ようとしていた。その男は、浄めのお水をかける道具に指を触れた。そこで、老人は、手がぶるぶる顫えるので、聖水おみずを雨のように地面じべたにこぼしながら、そッと呼んでみた。
「ジャンじゃないかえ」
すると男はひたと立ち止って、老人の顔をじッと見た。
老人は声を低めてもう一度、
「ジャンだったのかえ」
二人の婦人には、なんのことだか訳が分らないので、ただ茫然と老人をみまもっていた。
そこで、老人はおろおろと三たび目に云った。
「ジャンだったんだねえ」
すると、若い男は、老人の顔に自分の顔がくッつくほど、ぐッと身をかがめた。そして、幼い頃の記憶が突如としてその胸に蘇って来たのだろう、こう答えた。
「お父ッあんのピエールとおッ母さんのジャンヌですか」
ジャンは父親の姓も、生れ故郷の村の名も、何もかも忘れてしまっていた。けれども、幼い日に始終口にしていた父母の呼び名だけは忘れなかったのである。
彼は崩れるようにそこへ膝をつくと、老人の膝のうえに顔を押しあてて泣きだした。そして、夢かと思われるような悦びに、今はもう口も利けない、その父母をかわるがわるひしとばかり擁き緊めるのだった。
大きな幸福が訪れて来たことを知って、二人の婦人も泣いていた。
彼等はそれから連れ立って青年の家へ行った。青年は自分の身の上ばなしを語って聞かせた。
やっぱり軽業師の一行に誘拐されたのだった。そしてジャンは、三年のあいだ、彼等につれられて、町から村へ、村から町へ流れあるいた。その後、その一座はちりぢりばらばらになってしまった。立派な屋敷で暮していたある老婦人が、ジャンを可愛い子と思ったので、一日あるひ、その身の代金しろきんを払って、自分の手もとに引き取った。なかなか利発な子だったので学校にあげた。済むとまた上の学校に通わせた。この老婦人には子供がなかったので、持っていた財産はそッくり彼のものになった。そして、ジャンのほうでも、生みの父母ちちははを探していたのだったが、何せ、覚えているのは、「お父ッさんのピエール」と「おッ母さんのジャンヌ[#「ジャンヌ」は底本では「ジンヤヌ」]」という二つの名前ばかりである。探そうにも、探しだす手だてがなかったのである。彼はいま妻を迎えようとしていた。そして自分の妻になる女を両親に引き合わせた。気だての優しい、容色きりょうもなかなかいい女だった。
老人夫婦が代って自分たちの永い永い間の心痛と苦労のかずかずを語りおわると、親子はもう一度抱き合った。その晩は、いつまでもいつまでも起きていた、誰も寝ようとしなかった。自分たちの手からあんなに永いあいだ逃げていた幸福、その幸福をようやく捕えたのである。この幸福が、眠っているに、また自分たちを見捨ててどこかへ行ってしまいはしないだろうか。彼等はそれが心配だったのである。
しかし、彼等はしつッこい不幸に苦しむだけ苦しんで来たのだろう、死ぬまで幸福な日を送ることが出来た――。

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ある自殺者の手記

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ある自殺者の手記

モオパッサン

秋田滋訳

新聞をひろげてみて次のような三面記事が出ていない日はほとんどあるまい。

 水曜日から木曜日にかけての深更しんこう、某街四十番地所在の家屋に住む者は連続的に二発放たれた銃声に夢を破られた。銃声の聞えたのは何某氏の部屋だった。ドアを開けてみると借家人の某氏は、われと我が生命いのちを断った拳銃を握ったまま全身あけに染って打倒れていた。
某氏(五七)はかなり楽な生活くらしをしていた人で、幸福であるために必要であるものはすべてそなわっていたのである。何が氏をしてかかる不幸な決意をなすに到らしめたのか、原因は全く不明である。

何不足なく幸福に日を送っているこうした人々を駆って、われと我が命を断たしめるのは、いかなる深刻な懊悩おうのう、いかなる精神的苦痛、傍目はためには知れぬ失意、はげしい苦悶がその動機となっての結果であろうか? こうした場合に世間ではよく恋愛関係の悲劇を探したり想像してみたりする。あるいはまた、その自殺を何か金銭上の失敗の結果ではあるまいかと考えてみる。結局たしかなところを突止めることは出来ないので、そうした類いの自殺者に対しては、ただ漠然と「不思議な」という言葉が使われるのだ。
そうした「動機もなく我とわが生命を断った」人間の一人が書き遺していった手記がその男のテーブルの上に発見され、たまたま私の手に入った。最後の夜にその男が弾をこめたピストルを傍らに置いて書き綴った手記である。私はこれを極めて興味あるものだと思う。絶望の果てに決行されるこうした行為の裏面に、世間の人がきまって探し求めるような大きな破綻は、一つとして述べられていない。かえってこの手記は人生のささやかな悲惨事の緩慢な連続、希望というものの消え失せてしまった孤独な生活の最後に襲って来る瓦解をよく語っている。この手記は鋭い神経をもつ人や感じやすい者のみに解るような悲惨な最後の理由を述べ尽しているのである。以下その手記である、――

夜も更けた、もう真夜中である。私はこの手記を書いてしまうと自殺をするのだ。なぜだ? 私はその理由を書いてみようと思う。だが、私はこの幾行かの手記を読む人々のために書いているのではない、ともすれば弱くなりがちな自分の勇気をかき立て、今となっては、遅かれ早かれ決行しなければならないこの行為が避け得べくもないことを、我とわが心にとくと云って聞かせるためにつづるのだ。
私は素朴な両親にそだてられた。彼らは何ごとに依らず物ごとを信じ切っていた。私もやはり両親のように物ごとを信じて疑わなかった。
永いあいだ私はゆめを見ていたのだ。ゆめが破れてしまったのは、晩年になってからのことに過ぎない。
私にはこの数年来一つの現象が起きているのだ。かつて私の目には曙のひかりのように明るい輝きを放っていた人生の出来事が、昨今の私にはすべて色褪せたものに見えるのである。物ごとの意味が私には酷薄な現象のままのすがたで現れだした。愛の何たるかを知ったことが、私をして、詩のような愛情をさえ厭うようにしてしまった。
吾々人間は云わばあとからあとへ生れて来る愚にもつかない幻影に魅せられて、永久にそのなぶりものになっているのだ。
ところで私は年をとると、物ごとの怖ろしい惨めさ、努力などの何の役にも立たぬこと、期待のうつろなこと、――そんなことはもう諦念あきらめてしまっていた。ところが今夜、晩の食事をおわってからのことである。私にはすべてのものの無のうえに新たな一とすじの光明が突如として現れて来たのだ。
私はこれで元は快活な人間だったのである! 何を見ても嬉しかった。みちゆく女の姿、街の眺め、自分の棲んでいる場所、――何からなにまで私には嬉しくて堪らなかった。私はまた自分の身につける洋服のかたちにさえ興味をもっていた。だが、年がら年じゅう同じものを繰返し繰返し見ていることが、ちょうど毎晩同じ劇場へはいって芝居を観る者に起きるように、私の心をとうとう倦怠と嫌悪の巣にしてしまった。
私は三十年このかた来る日も来る日も同じ時刻に臥床ふしどい出した。三十年このかた同じ料理屋へいって、同じ時刻に同じ料理を食った。ただ料理を運んで来るボーイが違っていただけである。
私は気分を変えようとして旅に出たこともある。だが、知らぬ他国にあって感じる孤独が恐怖の念をいだかせた。私には自分がこの地上にたッたひとりで生きている余りにも小ッぽけな存在だという気がした。で、私は怱々そうそうとまた帰途につくのだった。
しかし、帰って来れば来るで、三十年このかた同じ場所に置いてある家具のいつ見ても変らぬ恰好、新らしかった頃から知っている肱掛椅子の擦り切れたあと、自分の部屋の匂い(家というものには必ずその家独特の匂いがあるものだ)そうしたことが、毎晩、習慣というものに対して嘔吐を催させると同時に、こうして生きてゆくことに対して劇しい憂欝を感じさせたのである。
何もかもが、なんの変哲もなく、ただ悲しく繰返されるだけだった。家へ帰って来て錠前の穴に鍵をさし込む時のそのさし込みかた、自分がいつも燐寸マッチを探す場所、燐寸マッチの燐がもえる瞬間にちらッと部屋のなかに放たれる最初の一瞥、――そうしたことが、窓からと思いに飛び降りて、自分にはのがれることの出来ない単調なこれらの出来事と手を切ってしまいたいと私に思わせた。
私は毎日顔を剃りながら我とわが咽喉をかき切ってしまおうという聞分けのない衝動を感じた。頬にシャボンの泡のついた、見あきた自分の顔が鏡に映っているのを見ていると、私は哀しくなって泣いたことが幾度となくある。
私にはもう自分がむかし好んで会った人々の側にいることさえ出来なくなった。そうした人間を私はもう知り尽してしまったのである。会えば彼らが何を云い出すか、また自分が何と答えるか、私にはもうちゃんとわかっているのだ。私はそんなにまで彼らの変化に乏しい思考のかたや論法のくせを知ってしまった。人間の脳などと云うものは、誰のあたまも同じで、閉め込みをくった哀れな馬が永久にその中でかけ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っている円い曲馬場のようなものに過ぎまい。吾々人間がいかにあくせくしてみたところで、いかにぐるぐる※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ってみたところですぐまた同じところへ来てしまう。いくら※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ったって限りのない円なのだ。そこには思いがけぬ枝道があるのでもなく、未知への出口があるわけでもない。ただぐるぐる※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っていなければならないのだ。同じ観念、同じ悦び、同じ諧謔かいぎゃく、同じ習慣、同じ信仰、同じ倦怠のうえを、明けても暮れてもただぐるぐると――。
今夜は霧が深くたち籠めている。霧は並木路をつつんでしまって、鈍い光をはなっている瓦斯ガス灯がくすぶった蝋燭のようにみえる。私の両の肩をいつもより重くしつけているものがある。おおかた晩に食ったものが消化こなれないのだろう。
食ったものが好く消化れると云うことは、人間の生活のうちにあってはなかなか馬鹿にならないものなのだ。一切のことが消化によるとも云える。芸術家に創作的情熱をあたえるのも消化である。若い男女に愛の欲望をあたえるのも消化である。思想化に明徹めいてつな観念をあたえるのも、すべての人間に生きる悦びをあたえるのもやはり消化である。食ったものが好く消化れれば物がたくさん食えもする(何と云ってもこれが人間最大の幸福なのだ。)病弱な胃の腑は人間を駆って懐疑思想に導く。無信仰に誘う。人間の心のなかに暗い思想や死をねがう気持を胚胎はいたいさせるものだ。私はそうした事実をこれまでに幾度となく認めて来た。今夜食べたものが好く消化していたら、私もおそらく自殺なんかしないで済んだろう。
私は三十年このかた毎日腰をかけて来た肱掛椅子に腰を下ろした時に、ふと自分の周りにあるものの上に眼を投げた。と、私は気が狂ってしまうかと思ったほどはげしい悲哀かなしみにとらわれてしまった。私は自分というものから脱れるためにはどうしたら好いかと考えてみた。何か物をすることは、何もしずにいることよりもいっそういやなことだと思われた。私はそこで自分の書いたものを整理しようと考えたのである。
私は久しい前から机の抽斗ひきだしを掃除しようと思っていたのだ。私は三十年来、同じ机の中へ手紙も勘定書もごたごたに放り込んでいたからだ。抽斗の中が手のつけようもないほどとッ散らかっていると思うと私は時折り厭な気持になることもあった。だが私は、整頓するということを考えただけで、精神的にも肉体的にも疲労を感じてしまうので、私にはこの厭わしい仕事に手をつける勇気がなかったのである。
今夜、私はデスクの前に腰をかけて抽斗を開けた。書いたものをあらまし引裂いて棄ててしまおうとして、私はむかしの文書をり分けにかかったのだった。
私は抽斗をあけると黄ろく色の変った紙片がうず高く積みあがっているのを見て、暫時しばしは途方に暮れたが、やがてその中から一枚の紙片をとりあげた。
ああ、もしも諸君がに執着があるならば、断じて机に手を触れたり、昔の手紙が入っているこの墓場に指も触れてはいけない! 万が一にも、たまたまその抽斗を開けるようなことでもあったら、中にはいっている手紙を鷲づかみにして、そこに書かれた文字が一つも目に入らぬように堅く眼を閉じることだ。忘れていた、しかも見覚えのある文字が諸君を一挙にして記憶の大洋に投げ込むことのないように――。そしていつかは焼かるべきこの紙片を火の中に放り込んでしまうことだ。その紙片がすべて灰になってしまったら、更にそれを目に見えぬように粉々にしてしまうことだ。――しからざる時は、諸君は取返しのつかぬことになる、私が一時間ばかり前からにッちもさッち足悶あがきがとれなくなってしまったように――。
ああ、初めのうちに読み返した幾通かの手紙は私には何の興味もないものだった。それにその手紙は比較的新らしいもので、今でもちょいちょい会っている現に生きている人たちから来たものであった。また、そんな人間の存在は私の心をほとんど動かさないのである。が、ふと手にした一枚の封筒が私をはッとさせた。封筒の上には大きな文字で太く私の名が書かれてある。それを見ていると私の双の眼になみだが一ぱいいて来た。その手紙は私のいちばん親しかった青年時代の友から来たものだった。彼は私が大いに期待をかけていた親友だった。やさしい微笑を面に湛え[#「湛え」は底本では「堪え」]、私のほうに手をさし伸べている彼の姿があまりにまざまざと眼の前にあらわれたので、私は背中へ水でも浴びせられたようにぞうッとした。そうだ、死者はたしかに帰って来るものだ。現に私が彼の姿を見たのだからたしかである! 吾々の記憶というものは、この世界などよりも遥かに完全な世界なのだ。記憶は既に生存していないものに生命いのちをあたえるのだ。
私の手はワナワナふるえた、眼はくもってしまった。だが私は彼がその手紙の中で語っている一部始終を読み返した。私は歔欷むせびないている自分の哀れな心の中に痛い傷痕をかんじて、我知らず手足を折られでもした者のようにうめき声を放った。
私はそこで河をひとがさかのぼるように、自分の歩んで来た一生をこうして逆に辿って行った。私は自分がその名さえ覚えていなかったほど久しい前から忘れてしまっていた人たちのことを思い出した。その人たちの面影だけが私の心の中に生きて来た。私は母から来た手紙の中に、むかし家で使っていた雇人や私たちの住んでいた家の形や、子供のあたまについて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るような他愛もない小さな事を見出した。
そうだ、私は突然母のふるいおつくりを思い出したのだった。すると、母のおもかげは母親がその時時ときときの流行をうてていた着物や、次から次へ変えた髪飾りに応じて変った顔をしてうかんで来た。特にむかし流行った枝模様のついた絹の服を著た母の姿が私の脳裡をしきりに往ったり来たりした。と、私はある日母がその服を著て、「ロベエルや、よござんすか、体躯からだをまッすぐにしてないと猫背になってしまって、一生なおりませんよ」と、私に云っていたその言葉を思い出した。
また、別な抽斗をいきなり開けると、私は恋の思い出にばッたりぶつかった。舞踏靴、破れたハンカチーフ、靴下どめ、髪の毛、干からびた花、――そんなものが急に思い出された。すると私の生涯の懐かしい幾つかの小説が私をいつ果てるとも知れぬものの云いようのない憂愁の中に沈めてしまった。この小説中の女主人公たちは今でも生きていて、もう髪は真ッ白になっている。おお、金色の髪の毛が縮れている若々しい額、やさしく撫でる手、物云う眼、皷動こどうする心臓、唇を約束する微笑、抱愛ほうあいを約束する唇!――そして最初の接吻、思わず眼を閉じさせる、あのいつ終るとも見えぬながいながい接吻、あの接吻こそやがて女のすべてを我が物にする、限りない幸福に一切のものを忘れさしてしまうのだ。
こうした遠く過ぎ去った旧い愛のふみを私は手に一ぱいつかみ、私はそれを愛撫した。そして、思い出に今は物狂おしくなった私の心の中に、私は棄てた時の女の姿を一人々々見たのである。と、私は地獄の話が書いてある物語で想像されるあらゆる苦痛より遥かに苦しい気がした。
最後に私の手には一通の手紙が残った。それは私の書いたもので、私が五十年前に習字の先生の言葉を書き取ったものだ。
その手紙にはこうあった、

ボクノ 大スキナ オ母アサマ
キョウ ボクハ 七ツニナリマシタ 七ツトイウト モウ イイ子ニナラナクテハイケナイ年デス ボクハ コノ年ヲ ボクヲ生ンデ下サッタ オ母アサマニ オ礼ヲ云ウタメニ ツカイマス
オ母アサマガダレヨリモスキナ
オ母アサマノ子
ロベエル

手紙はこれだけだった。私はこれでもう河の源まで溯ってしまったのだ。私は突然自分の残生おいさきのほうを見ようとして振返ってみた。私は醜い、淋しい老年と、間近に迫っている老衰とを見た。そして、すべてはそれで終りなのだ、それで何もかもが終りなのだ! しかも私の身のまわりには誰ひとりいない!
私の拳銃はそこに、テーブルの上にのっている、――私はその引金をおこした、――諸君は断じて旧い手紙を読んではいけない!

世間の人は大きな苦悶や悲歎を探し出そうとして、自殺者の生涯をいたずらに穿鑿せんさくする。だが、多くの人が自殺をするのは、以上の手記にあるようなことに因るのであろう。

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三人の百姓

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昔、ある北の国の山奥に一つの村がありました。その村に伊作いさく多助たすけ太郎右衛門たろうえもんという三人の百姓がありました。三人の百姓は少しばかりの田を耕しながら、その合間に炭を焼いて三里ばかり離れた城下に売りに行くのを仕事にしておりました。
三人の百姓の生れた村というのは、それはそれはさびしい小さな村で、秋になると、山が一面に紅葉もみじになるので、城下の人たちが紅葉を見に来るほか、何の取柄とりえもないような村でありました。しかし百姓たちの村に入るところに大きな河が流れて、その河には、秋になると、岩名いわな山魚やまべが沢山に泳いでいました。村の人たちは、みんな楽しそうに、元気で働いていました。
伊作、多助、太郎右衛門の三人は、ある秋の末に、いつものように背中に炭俵を三俵ずつ背負って城下へ出かけて行きました。三人が村を出た時は、まだ河の流れに朝霧がかかって、河原かわらの石の上には霜が真白まっしろりていました。
「今日も、はあお天気になるべいてや。」
と伊作が橋を渡りながら、一人言ひとりごとのようにいうと、ほかの二人も高い声で、
「そんだ、お天気になるてや。」
と調子を合わせて、橋を渡って行きました。三人はいつものように、炭を売ってしまったあとで、町の居酒屋で一杯ひっかける楽しみのほか、何の考えもなく足を早めて道を歩いて行きました。
伊作はせいの高い一番丈夫な男だけに、峠を登る時は、二人から一ちょうほども先きを歩いていました。多助と太郎右衛門は、高い声で話をしながら坂を登って行きました。二人は浜へ嫁に行っていた村の娘が、亭主に死なれて帰って来たという話を、さもさも大事件のように力を入れて話していたのでした。
峠を越すと、広い平原になって、そこから城下の方まで、十里四方の水田がひろがって、田には黄金こがねの稲が一杯にみのっていました。
「伊作の足あ、なんて早いんだべい!」
と多助は太郎右衛門に言いました。
「ああした男あ、坂の下で一服やってる頃だべい。」
と太郎右衛門は笑いながら答えました。多助と太郎右衛門が、峠を越して平原の見えるところまで来た時、坂の下の方で伊作が一生懸命に二人の方を見て、手を振っているのが、見えました。
「どうしたんだべいな? 伊作あ、らを呼んでるてばな。」
と多助が言いました。太郎右衛門も顔をしかめて坂の下を見下しました。
「早く来い、早く来い……面白いものがおっこってるぞ!」
という伊作の声がきこえて来ました。
「面白いものがおっこってるよ。」
と多助は、笑いながら言うと、太郎右衛門も大きな口をいて笑いました。
「伊作の拾うんだもの、ろくなものでなかべいになあ!」
と太郎右衛門は附け足して、多助と一緒に少し急いで坂を下りて行きました。
坂の下の方では、伊作はさも、もどかしそうに、二人の下りて来るのを待っていました。
だまされたと思って、急ぐべし!」
と多助は、炭俵をがさがささせて、走って行きました。太郎右衛門は、根がはしっこくない男でしたから、多助に遅れて、一人で坂を下りて行きました。太郎右衛門が伊作のいたところへ着いた時には、伊作と多助は大事そうにして、何か持ち上げて見たりさわって見たりしていました。
「何あ、おっこってるんだてよ?」
と太郎右衛門は間抜まぬけな顔をして、二人の立っている間へ顔を突込つっこんでやりました。
「見ろ、こうしたものあ、落ってるんだてば。」
と伊作は、少し身体からだ退けて、太郎右衛門にも見せました。
「ははあ! これあ、奇体な話でねいか!」
と太郎右衛門は叫びました。今三人の前に生れてから三月ばかりった一人の赤児あかごが、美しいきれに包まれて捨てられているのでした。伊作の話では、伊作の最初に見付けた時は、赤児はよく眠っていたということでした。
「一体何処どこの子供だべいな? いい顔つきっこをしてるのにな!」
多助は赤児の顔を見て、
「それさ、いい着物を着て、ただ者の子供じゃあんめいよ。そんだとも、うっかり手をつけられねいぞ。かかり合いになって牢屋ろうやさでも、ぶっこまれたら大変だ。触らぬ神にたたりなしって言うわで。」
附足つけたして言いました。
「そうだども、不憫ふびんでねいか、けだものにでも見つかったら、食われてしまうでねいか?」
と、気の弱い太郎右衛門は言いました。
「子供も不憫には不憫だども、勿体もったいねい着物っこを着てるでねいか?」
平生ふだんから少し慾の深い伊作は、赤児を包んでいる美しいきれを解いて見ました。すると、赤児の腹のところに、三角にくけた胴巻どうまきが巻きつけてありました。伊作は赤児の泣くのも耳に入らないと言うように、その財布を取り上げて、片方の端を持って振り廻して見るとその中から小判がどっさり出て来ました。それを見て、多助も太郎右衛門も吃驚びっくりしてしまいました。
んて魂消たまげた話しだ!」と多助は青い顔をして太郎右衛門を見ると、太郎右衛門は今までこんな大金を見たことがないので、きもをつぶしてしまって、がたがたふるえていました。
伊作の発議でとにかく三人はその赤児を拾うことにきめました。
「この金はとにかく、おいらが預って置くことにすべい。」
と伊作はさっさと自分の腹へ巻きつけようとしましたので、それを見た多助は、大変におこって、伊作と喧嘩けんかを初めました。そこで伊作は仕方がないので、小判を十枚だけ多助に渡しました。そして太郎右衛門には五枚だけ渡して、
「お前に子供がないわで、この子供を育てたらよかべい。」
と言いました。
太郎右衛門は、その時伊作に向って、
おいら、子供が不憫だわで、つれて行くども、金が欲しくて子供をつれて行くんでねい。」
と言ってどうしても金を受取りませんでした。多助は、もし太郎右衛門が受取らなければその五枚も伊作に取られてしまうのを知っているので、是非受取るようにすすめたけれども受取りませんでした。伊作は太郎右衛門がどうしても受取らないので、その内の二枚を多助にくれて、あとの三枚を元の胴巻へ入れて、腰に巻きつけてしまいました。多助も後二枚だけ余計にもらったので、まんざら悪い気持もしませんでした。三人は城下へ行くのをやめて、その日は自分の村へ帰ってしまいました。
太郎右衛門は拾った赤児をどうして育てて行こうかと、道々心配して帰って来ましたが家へ帰っておかみさんに赤児を見せると、子のないお神さんが大変喜んでくれたので、ほっと安心しました。しかし伊作に口止めされているので、小判の話なぞは一言ひとことも言いませんでした。「もし金のことが発覚すれば、三人同罪で牢屋へ行くのだ。」と伊作は馬鹿正直な太郎右衛門に言い含めて置いたのでした。
太郎右衛門と、太郎右衛門のお神さんが、この赤児を見ているうちに、今まで一度も感じたことのないようなうれしい気持になって来ました。お神さんは、太郎右衛門に向って、
「この子はお寺の子でねえかしら!」
と言いました。そのわけは、赤児を包んでいるきれ緞子どんすという立派な布で、お神さんが城下のお寺で、一度見たことがあるからということでした。
「馬鹿な女子あまっこだな、してお寺で子供を捨てべいな!」
と太郎右衛門はお神さんを叱りつけました。
その晩、太郎右衛門夫婦は、大きなかまに湯をわかして、うまやの前で赤児に湯をつかわせてやることにしました。お神さんは、何気なく赤児の帯をほどいて、厩の方へつれて行こうとすると、大きな振袖ふりそでの中から一枚の紙片かみきれが落ちて来ました。
「何んだべい!」と言って、その紙片を亭主の太郎右衛門に渡しました。太郎右衛門はそれを拾って見ると、その紙片に、しものような文字もじが平仮名で書いてありました。

「ゆえありて、おとこのこをすつ、なさけあるひとのふところによくそだて。よばぬうちに、なのりいづるな、ときくれば、はるかぜふかん。」

この平仮名を読むために、夫婦は一晩費してしまいました。太郎右衛門が読んだ時と、お神さんの読んだ時と文句がちがうので大変に困りました。
「何しろ、拾った人に、親切にしてくれろってことだべい。」
と太郎右衛門が言うと、お神さんも、
「そんだ、そんだ。」
と同意を表しました。
二人はその晩、拾った赤児を替り番子に抱いて寝ました。赤児の柔かいはだが触れると、二人ともんとも言い表わしがたい快感を感じました。夜になってから、赤児が二度ほど泣きましたが、二人はそのたびに、甲斐甲斐かいがいしく起上って、あやしてやったり、「おしっこ」をさせてやったりしたので、朝方あさがたになって、大変よく眠りました。お神さんが早く起きて、雨戸を明けると、そこから明るい太陽が遠慮なくし込んで来ました。お神さんは、急に自分が偉い人間にでもなったような自慢らしい気持がするので、不思議に思われる位でした。
太郎右衛門も太郎右衛門で、自分に抱かれて眠っている子供の顔を見ていると、その子がほんとうに自分の生んだ子供のような気がするのでした。
「見ろ、この子はんていいつらしてるんだんべいな!」
と太郎右衛門は、朝の仕度したくにかかっている、お神さんを呼んで、子供の顔を見せました。
「ほんとね、いいつらっこだこと。こんな子供ね百姓させられべいか!」
とお神さんは、子供の寝顔を見て、つくづくと言うのでした。
太郎右衛門が子供を拾ったといううわさが村中一杯にひろがりました。夕方になると村の神さんたちや子供たちがぞろぞろそろって捨児すてごを見に来ました。そして、余り美しい児なので、みんな驚いてしまいました。そして、
「太郎右衛門さんとこあ、なんて仕合せだんべい。」
と口々に言いはやしながら帰りました。
これまで太郎右衛門の家はただ正直だというだけで、村では一番貧乏で、一番馬鹿にされて暮した家でしたが、子供を拾ってからは大変にぎやかな幸福な家になってしまいました。しかし太郎右衛門の家には田畑もないのに、子供が一人えたので、貧乏は益々ますます貧乏になりました。しかし太郎右衛門は一度も不平を言ったことがありません。田を耕している時でも、山で炭を焼いている時でも、太郎右衛門は、子供のことを思い出すと、愉快で愉快でたまりませんでした。「早く仕事を終えて子供の顔を見たいもんだ。」と心の中で思いながら仕事をしていました。
子供の名は、朝拾ったので、朝太郎とつけましたが、その朝太郎も、もう四歳になりました。顔立こそ美しいが、始終田畑や山へつれて行くので、色が真黒になって、百姓の子供として恥かしくないような顔になってしまいました。無論着物なぞも、百姓の子供の着るようなものを着せていたので、ほんとに太郎右衛門夫婦の子供だと言っても、誰も不思議に思うものがない位でありました。
話変って、あの太郎右衛門と一緒に子供を見つけた伊作と多助はどうしたでしょう? 伊作と多助はその後、だんだん仲が悪くなって、いつでも喧嘩ばかりしていました。伊作はある年の夏、橋のたもとに小さな居酒屋をこしらえましたが、村には一軒も酒屋がなかったので、この居酒屋が大層繁昌はんじょうしてだんだんもうかって行きました。伊作は今では田を耕したり、炭を焼いたりしないでも、立派に食べて行かれるようになりました。多助は、その頃村のはずれに小さな水車小屋を持っていましたが、毎日伊作の店に寄っては酒を飲んだり、干魚ひざかなたべたりして、少しも勘定を払わないので、それが土台になって二人はいつでも喧嘩をしました。二人は喧嘩をしたかと思うと仲直りをし、仲直りをしたかと思うと、また喧嘩をしました。
村の人たちには、どうしてあんなに仲のかった伊作と多助が、こんな喧嘩をするようになったのか誰も知りませんでした。
朝太郎が四歳になった秋の初めに、城下から代官様が大勢の家来に空駕籠からかごまもらせて、この淋しい村へやって来ました。村の人たちは胆をつぶして行列を見ていました。すると代官様の一行は、庄屋長左衛門ちょうざえもんの家にどやどやと入りました。庄屋は顔を真青まっさおにして代官様の前に出ました。
「まだ紅葉もみじにはお早ようございますが、一体どういう御用でおいでなさいましたか、どうぞ御用を仰せつけてください。」
と庄屋は畳に頭をつけて挨拶あいさつしました。すると、代官様は笑って、
「実は、今日は妙な相談があって来たのだが、相談にのってくれるだろうかね?」
と言いました。長左衛門は、益々恐縮して、
「これは誠に恐れ入ります。御代官様の御相談ならばどんなことでも御相手になりましょう。どうかんなりと仰せつけください。」
と言いました。
「早速だが、この村に朝太郎という男の子がいるそうだが、その子供を貰い受ける訳には行かないだろうか?」
と代官は言い出しました。
「さあ……」と言ったきり、長左衛門は何ともあとの句が出なくなりました。何故なぜといいますと太郎右衛門が朝太郎をこの上もなく愛しているのを、庄屋もよく知っていたからです。「実は」と長左衛門はおそる怖る代官様の顔を見て、「あの子は訳あってあの太郎右衛門が拾い上げて、これまで育てて参りましたもので……」と言いかけた時、代官様は、
「それは、わたしも知っているのだ。知っているからこそお前に相談をするのだ。実はあの朝太郎というお子は、殿のお世継よつぎ吉松よしまつ様というかたなのだ。さあ、こう申したら、お前もさぞ驚くだろうが、ちょっとした殿のお誤りから、あのお子が悪者の手にかかってお果てなされなければならない破目はめ立到たちいたったのを、色々苦心の末に、この山奥にお捨て申して、律儀りちぎな百姓の手に御養育いたさせたのだ。その証拠はお子を拾い上げた者が所持しているはずだ。とにかく一刻も早く吉松殿にお目通りいたしたい。」
と大変真面目な言調ことばで言いました。
庄屋の長左衛門も初めて事情が解ったので、早速太郎右衛門のところへ行って、神棚かみだなに入れて置いた書物かきものを出させ、太郎右衛門と朝太郎を同道して、代官様の前に表われました。すると代官様と家来たちはちゃんとへやの外までお出迎えして、朝太郎を床の間の前に坐らせて、丁寧にお辞儀をしました。太郎右衛門は、庄屋から大体の話はきいて来たようなもののこの有様を見て、吃驚びっくりしてしまいました。朝太郎は何も解らないので、みんなの顔をきょときょとと見廻わしているばかりでした。
その日の夕方、日のかげる頃を見計って朝太郎の吉松殿は、牡丹ぼたんに丸の定紋じょうもんのついた、立派な駕籠かごに乗せられて、城下の方へつれて行かれました。そして、その代りに莫大ばくだいな金が太郎右衛門夫婦に残されました。
んてお目出たい話だ。お前のとこの朝太郎が殿様になるんじゃないか。」
と庄屋の長左衛門が、駕籠の見えなくなった時、太郎右衛門に言いますと、太郎右衛門は眼に涙を一杯ためて、
「何が目出たかべい……庄屋様、後生ごしょうだわで、殿様がいやになったらいつでも遠慮なく家さ戻って来るように言ってやってくれべい!」
と言って涙を留度とめどなく流しました。

夢の如く出現した彼

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夢の如く出現した彼

夢野久作氏を悼む

青柳喜兵衛

燃え上った十年、作家生活の火華は火華を産ンで、花火線香の最後に落ちる玉となって消えた夢野久作、その火華は、今十巻の全集となって、世に出ようとしている。
久作さんを知ったのは何時の頃からかは、はっきりしない。何でも幼い頃からで、産れながらに知っていたような気もする。
「夢野久作ってのが、頻りに探偵小説の様なもの――事実探偵小説の様なものであって、そんジョそこらにある様な、単なる探偵小説とは、およそその類をことにしているのである。久作さんは、何んでも、彼でも、探偵小説にせずにはおかないと云った、熱と、力量は自分乍らも相当自身があっただけに、探偵小説なるものを芸術的に、文学的に、グウとレベルを引上げたのである。つまり、何処から見ても立派な芸術的文学とまで発展させていたのであるから、これまでの探偵小説に馴されていた者には、実に探偵小説の様なものであったのである――を書いている奴があるが、あらァ誰かいネ。古い博多の事ばよう知ッとるし、なかなか好い、博多のモンとありゃ、一体誰じゃろうかい」等と、次兵衛イトコ達や、田舎芸術家達の間に、サンザン首をひねらしたものである。
それから半歳も過ぎた頃、筆者はたまたま郷里博多へ帰っていた。旅行好きの次兵衛がひょっこり旅から帰って来て、「おい、夢野久作って解ったよ。あらぁ杉山の直樹さんたい」とは、久々の挨拶もそっちのけの言葉であった。と云うわけはこうである。
生活に追い立てられて旅に出た次兵衛が、わずかに温まった懐をおさえて、九州の青年の多くが、その青雲を志し成功を夢みて、奔流する水道を、白波たつ波頭を蹴散らし蹴散らし、いささかのセンチを目に浮べて、悲喜交々、闘志を抱いて渡る関門の海峡を、逆に白波を追っていた連絡船の中で、夢野久作の正体を発見したのである。
「オオ、ジッちゃんじゃないか、此頃あたしゃ、こげえなこと、しよりますやなァ」と、額から鼻、鼻から頤まで暫くある、名代の顔に、恥い乍らも誇をひそめて、眼を細くし乍ら、長いことにおいては又久作さんと負けず劣らずの馬面で共に有名な、チョビ髭の尖った頤との一対の対面は世にも見事であったろう。その馬面に突きつけられた雑誌が、此れまでサンザ首をひねらせた新青年の夢野久作ものするところの、あの古博多の川端――筆者の産れた――あたりと櫛田神社オクシダサマの絵馬堂を織り込ンだ『押絵の奇蹟』だったのである。
久作さんはかくして名探偵作家として突然にも、夢の如く現れて来たのであった。
筆者がまだ郷里の商業学校の生徒であった頃、最近も穿いておられたのを見るとよ程好きであったらしい灰色のコールテンズボンに違った上着で、相撲の強かった大男のKさんと、奥さんもたまには来られた様であったが、香椎かしいの山奥で作ったと云う水密桃だの梨だの葡萄だのを市場――筆者の父は青物果実問屋の親爺であった――へ持って来られていたのをよく知っている。その頃久作さんは農民であった。而も露西亜好きの農民の様であった。あの杉山さんが夢野久作であったのかと思えば夢の様でもあり、ない様でもある。
それから間もなく、ルパシカに長靴、馬上ゆたかにと云うのかどうかしらないが威風堂々とゆられつつ、謡いつつの奇妙な新聞社通いが始った様であった。
農民時代から文字通り理想的な晴耕雨読か、それとも晴読雨書なのか、姿こそ農民であっても、一たん彼氏の部屋には入れば、萬巻の書に足の踏場もなかったとは次兵衛がよく話していた。あの長篇快作『ドグラ・マグラ』も此の頃から書き始められたのではあるまいか。
久作さんは又非常な情熱家であった。かつて久作さんや次兵衛達によって短歌会が持たれていた頃、たまたま散策には少し寒いが晩秋の月のいい日に香椎の山で会が持たれて、一同は久作さんの山家で気勢を上げたそうである。飲む程に喋舌しゃべる程に、熱を上げ、降りしきる虫の声も眠る頃に及ンでやっと三人かたまり五人集って、三里の道を博多へと帰り始めたとお思い下さい。勿論その時分乗りものが有ろう筈もない。
然るに湧き返る青年達の血潮は玄海灘から吹きつける肌寒い夜風位いには驚きません。歌論は歌論へ、秋月は歌心へ、帰り行く友を送ってそこらまでの心算つもりがやがて博多の街つづきである箱崎になんなんとする地蔵松原――二里余もつづく千代の松原の一部、ここには米一丸の墓があって、人魂が飛ぶと云われた淋しいあたり、鉄道自殺と云えば地蔵松原を連想する程で、久作さんの『宙を飛ぶパラソル』はこのあたりでの出来ごとである――の果て近くまで論じ来り、遂いに淋しい松根に御輿をすえてしまい、秋月すでに帰り、太陽は名代の顔にしまを作ったと云う事である。こうした情熱と根強さが、世にも怪しき名探偵作家としたのではあるまいか。
久作さんはほんとに夢の様に、ポックリ逝かれた。夢野久作なんて何だか予約されていた名前への様にも想われるがそうではない。かかる名探偵作家を現世が産み出したことこそ夢の様ではないか、予約されていたとするならば即ちこれこそ予約されていたのである。
噫々ああ今にして花火線香の玉を消したことは返す返すも残念でならない。も五年でも、十年でもいい、もっともっと火華を散し、火華を咲かせたかった。唯々、惜しいことをしたと思い続けているのみである。
ここに十巻の全集が世に贈られることは癒されざる慰めの纔かな慰めである。

百万人のそして唯一人の文学

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純小説と通俗小説の限界が、戦後いよいよ曖昧あいまいになつて来た。これは日本に限つた現象ではないらしい。この現象は、いろいろな意味にとられるが、根本的には、純小説をしつかりささへてゐた個人主義、ないしは個人性が、それだけくづれてきたのだとみられる。そしてそれだけ、小説がジャーナリスチックになり、ジャーナリズムに征服されたのだとみられる。
昨年のことだが、わたしは妙な経験をした。一人の文学青年(実はもう青年ではないが)が原稿を見てくれと云つて玄関に置いていつた。しばらくしてその青年から手紙が来て、先日の原稿を友達にみせたら、まだこれは純小説で、通俗小説になつてゐないから駄目だめだと批評された、自分もさう思ふ、自分はこれから大いに勉強して、りつぱな通俗小説をかくつもりだ、といふ意味のことが、大真面目おほまじめにかいてあつた。わたくしは唖然あぜんとした。
純小説は、文学青年の手習ひみたいなもので、通俗小説に到達する段階にすぎないと、この人達は合点がてんしてゐるらしい。驚くべきことである。戦前までは、どんな幼稚な文学青年にも、こんな錯誤はみられなかつた。これも戦後現象の一つで、純小説と通俗小説の限界が曖昧になつてきたことの影響とみていいであらう。
作家たちの仕事振りをみても、づ純小説をかいて、文壇に認められることに努め、それがどうにか達せられると、予定の計画のやうな早さで、通俗小説へ転身する。さういふ打算的な作家が多くなつた。もうあんな小説をかき出したのかと、眼をこする場合もすくなくない。実際の気持はともかく、形からみれば、純小説はあきらかに踏み台で、目標は通俗小説にあるわけである。幼稚な文学青年の錯誤も無理とはいへない。
純小説で仕事をして、後に通俗小説に転身した作家は、過去にも、菊池寛をはじめ、尠くなかつた。しかし彼等の場合、それが決して予定の行動なんかではなく、何等かの意味で純小説に行詰つたところから、その転身となつたのだ。純小説にけた自己がたうてい持ち切れなくなつたので、その重荷を下したまでだ。転身後のそんな空虚な自己に堪へられない作家は、たいてい沈黙してしまつたが、中には、自殺によつてその苦をのがれたものもある。芥川龍之介がその一人だ。――さういふ潔癖家には、通俗小説に転身して成功する才能がなかつたのも原因してゐると云はれる。しかしそれは俗論で、問題にならない。通俗小説に納まる俗物性に我慢のならない彼等の作家精神こそ重大なのだ。
純小説と通俗小説の区別など、いまさら説くのも馬鹿々々しいが、純小説は作家一人のための文学であり、通俗小説は読者のための文学である、と極説して差支さしつかへあるまい。云ひかへると、純小説は、作家がそれを自己の一切を賭けた、生きるか死ぬかの仕事である。通俗小説は即刻即座に一人でも数多くの読者に読まれようとする仕事である。その目的さへ実現されれば、作者はどうだつて構はない。生き死になど最初から問題ではない。極端な場合を想像すると、作者が無くつたつて差支へないのだ。
こんな言ひ方をすると、純小説はまるで読者といふものを無視してゐるのかと、反問されるにきまつてゐる。およそ表現行為や、小説存在の根本動機を少しでも考へたら、そんな下らない反問が出るはずがない。読者のために描かないといふことは、読者を無視してゐることでは絶対にない。自分の内部にある、自分と分ちがたい読者のためにかき、それ以外の読者のためにはかかないといふことに他ならない。純小説とは、さういふ自分とさういふ形なき読者とのインチメートな対話として以外には考へられない。その読者は既に形がない以上、数量で測れるやうなものでなく、即刻即座の反響が聞かれる筈もない。しかし彼が、作家の内部に儼存げんぞんすることそのことで、形あるもの以上に形があり、時空をえてひろがる可能性をもつたものだといふことができる。世界のすぐれた純小説は、りつぱにその可能性を実現してみせてゐる。
通俗小説の作家の内部にも、彼と分ちがたい読者がゐないとは云はれない。彼が通俗小説で成功すればするほど、その形なき読者の、声なき声にひそかに悩まされてゐる作家を、その方面に交際のないわたくしでさへ、一人や二人知つてゐる。彼等はしかし、その読者のためにはかかない。絶対にかかないと云つていい。彼等はそれ以外の、形ある、数量で測れる読者のため、即刻即座の反響のため、そのためだけに書くのである。時空を超えてひろがる可能性をもつた形なき読者など、彼等にとつては、おそらく笑ひ話にもならないであらう。
「百万人の文学」と云はれる。通俗小説の目ざすものは、まさにそれである。そのためには、世の常識道徳に叛逆はんぎやくしてはならず、それから一歩すすんだものでなければならないとか、イデオロギー的の片よりがあつてはならず、つねに中間的、中庸的でなければならないとか、大衆の実生活から孤立せず、つねにそれと共に生きなければならないとか、ヒューマニティと愛を基調にしたものでなければならないとか、現代の流行通俗作家によつて、いろいろ定義や規準が示されてゐる。おそらくそれにちがひあるまい。通俗小説とは、さうした常規があり、その常規をうまく使つて造られる文学である。いはゆる筋なんかにしても、菊池寛は通俗小説の成功する筋は、何十通りしかないと云つてゐたのを記憶するが、おそらくそんなものであらう。
しかし「百万人の文学」にとつて、さらに重要なのは、先にもちよつと云つたやうに、即刻即座の反響である。これがなければ、どんな通俗小説も市場価値においては、紙屑かみくづ同然である。現に、今日楽しんで読まれさへすれば、明日は屑籠くづかごに投込まれても本望だと揚言してはばからない作家がある。いい覚悟だといふほかはない。この覚悟に徹底するのでなければ、通俗小説に安住自足することはできない。
その即効性を第一義とするのが、新聞小説である。いはゆる「百万人の文学」をいちばん問題とするのが新聞小説である所以ゆゑんだ。そして新聞小説に登場することこそ、世の通俗作家の本懐なのである。言ひかへると、新聞小説に登場することによつて、新聞といふメカニズムに乗つて、百万人の文学の実績をあげることが、彼等の本懐なのだ。百万人の文学としての通俗小説は、現代では、新聞のメカニズムに乗ることなしには考へられない。乃至ないしは、それがもつとも確実で、早道なのだ。それなら現代の新聞小説のメカニズムがどういふものか、そしてそのメカニズムを運転させてゐる現代新聞の本質がどんなものか、それをちよつとでも考へてみると、多少とも批判力のある通俗小説家が、ぬくぬくとそれに乗つて安住自足してゐる図が、不思議な位である。新聞小説は、さういふものから制約されるにちがひないが、それだけで尽きるものではないと抗弁したところで無駄である。
古く、藤村の「家」も、秋声の「あらくれ」も、二葉亭の「其面影そのおもかげ」も、漱石の諸長篇も、鴎外の史伝小説も、新聞に連載された。その意味で新聞小説であつた。しかし当時の新聞と現代の新聞との相違は、マニュファクチュアーと大企業工場との相違より大きい。戦後となると、その相違はいつそう大きくなつた。昔の新聞には、まだどこかに個人が生きてゐた。主筆とか編輯長とかの趣味見識が息づいてゐた。漱石は池辺三山の知遇に感じたのだ。ところが現代の新聞では、こと新聞小説にかんする限り、もはや主筆も編輯長も存在しない。営業部長によつて象徴される非個人的な計算があるばかりである。計算器の求めに応じた選択があるばかりだ。現代にもつてくれば、藤村、秋声、二葉亭、漱石、鴎外、枕をならべて落第である。即効百万人の文学を志さないやうな作家は、棚上たなあげである。文化賞か何んかで別口の利用法が工夫される位のものだ。もつとも極くれには、棚上げした純小説の作家を取り下して来ることはある。さきに荷風の「※(「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚ぼくとうきたん」あり、秋声の「縮図」あり、近くは潤一郎の「少将滋幹しげもとの母」あり、しかしこの例は、何も計算器選択説をくつがへすものではない。ちやんと大きな計算に合つた特別サービスで、かへつて日常サービスの通俗小説の粗悪さを裏書きしてゐるやうなものだ。
マニュファクチュアー的な昔の新聞でも、藤村や、漱石や、鴎外の特別席だけでは、事足りなかつた。春葉、幽芳、霞亭かていなどの通俗小説や、悟道軒円玉の講談のやうな追ひ込み席が必要であつた。現代の新聞小説の役目は、その追ひ込み席が果してゐたわけだ。その意味で、それらは「百万人の文学」を目ざした先駆ともいはれよう。現代の新聞からは、その特別席も消えた。同時に追ひ込み席も消えた。そしてあらはれたのが現代の通俗小説である。はつきり「百万人の文学」を追ひかけて来た新聞小説である。この通俗小説は、寛、有三、国士くにを、鉄兵などを経て発展したもので、昔の新聞小説の特別席と追ひ込み席を統一し、乃至は、双方を吸収したもののやうにられたりする。形の上ではさう云へるかも知れないが、実質的にはどうか。現代の通俗小説は、百万人の文学に近づく用意において、操作において、趣向において、たしかに進歩した。巧みになつた。生きてゐる現代風俗の広い地盤に立つたと云へないことはない。しかし彼等が好んで口にするヒューマニズムとか、大衆と共にとか、愛とかいふ立場から見て、本質的に、あの四分の一世紀以前の百万人の文学の先駆とどれだけちがふと云ふのか。
戦後に純小説と通俗小説との限界が曖昧になつて来たことは、冒頭に云つたやうに、それだけ個人性が崩れたとみられ、ジャーナリズムの勝利とみられるにしても、わたくしはその現象を必らずしも悲しむものではない。いい意味の通俗性の摂取はたしかに純小説のひとつの救ひであり、解放だからだ。これについてはしばしばかいたからここに繰返さない。しかし文学はいかなる意味でも、読者のためにだけあるものでなく、何よりもまづ作者のためにあるものである。通俗性の摂取もこの根本義を離れては、通俗小説の斜面を転げるばかりである。作者のため、作者ひとりのためにあることは、いかなる意味でも読者を無視するものでなく、却つて形のない百万人のための文学であり、その百万人に形を与へる文学であることは、さきに述べた。「ツアラトゥストラ」の詩人は、「万人のための、そして何人なんぴとのためでもない」書と云つた。これをかりて云へば、純小説は、どのやうな通俗化を許すにしても、読者に関しては、常に「万人のために、そして何人のためでもない」文学でなければならない。さうあることによつて、通俗小説への転落をまぬがれ、反対に新しい純小説として自己を高めることができるのだ。――わたくしは、以上述べたやうなことを、いま改めて強調する必要があると信じて、あへてこの文を成したのだ。

(昭和二十五年四月)

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